「あの案件、田中さんならどう進めますか」。エース営業の席の周りにだけ人が集まり、商談の進め方も提案資料も切り返しトークも、その人の頭の中にしかない。本人が異動や定年で抜けた途端、チームの数字が崩れる。多くのBtoB企業で繰り返されてきた光景です。この「エースの暗黙知」をどう組織の型に変えるかについて、参考になる調査があります。セールスイネーブルメント(営業組織の成果を底上げするための研修・コンテンツ・ナレッジ共有の仕組みづくり)のプラットフォームを提供するHighspot社が公表した年次調査「State of Sales Enablement Report 2025」です。本稿ではこの調査の数字を慎重に読み解きながら、エース頼みの営業ノウハウを仕組みに載せる現実的な手順を整理します。
目次
まず調査の概要から押さえます。この調査は第11回にあたり、営業・マーケティング・オペレーション部門などのGTM(Go-to-Market。市場開拓に関わる部門の総称)担当者350名を対象に、2025年2月から3月にかけて実施されました。回答者は21か国・61業種にまたがります。注意点として、Highspotはイネーブルメントツールを販売するベンダーであり、本調査はその自社調査です。回答数も350名と、数千人規模の大型調査に比べれば小さい。数字は「業界の傾向を示す参考値」として読むのが適切です。
そのうえで、調査が示した結果は次の通りです。
もうひとつ、イネーブルメント関連ツールがうまく統合されている企業は営業生産性を向上させる可能性が42%高い、という結果もあります。ただしツール統合の話は別記事で扱っているため、本稿の主題はあくまで研修・コーチング・ナレッジ共有に置きます。(参照:Highspot「State of Sales Enablement Report 2025」、Highspot「Insights from the State of Sales Enablement Report 2025」、RevenueBrew「Highspot report highlights AI's impact on GTM」(2025))
そして大事な注意がひとつ。これらの数字は相関であって因果ではありません。AIコーチングを入れたから勝率が上がったのか、もともと勝率が高く投資余力のある強いチームだから新しい仕組みを導入できたのか、この調査だけでは区別できないのです。傍証として、Salesforce(同社も営業AIを販売するベンダーです)が営業職4,050名を対象にした「State of Sales」第7版でも、ハイパフォーマーは見込み客開拓にAIエージェントを使う割合が他の1.7倍と報告されており、「成果を出すチームほどAIを使っている」という相関は複数の調査で方向が一致しています。因果の証明ではなく、「強いチームの共通項」として読むのが誠実な使い方です。(参照:Salesforce「State of Sales」(2026))
調査の数字を日本の現場に引きつけると、見えてくるのは「教える機能の属人化」です。
多くの営業組織で、育成の実態は「マネージャーの同行とその場の助言」と「エースの背中を見て学べ」の2本立てです。これは教える側の力量と時間に完全に依存します。マネージャーがプレイングで数字を持っていれば同行の頻度は落ち、フィードバックの質も人によってばらつく。新人が誰の下に付いたかで成長速度が変わる。つまり、営業ノウハウが属人化している会社では、ほぼ例外なくノウハウの伝え方も属人化しています。
Respectifyの支援先でも、案件情報のCRM入力は定着したのに育成は旧来のままという企業は少なくありません。商談の中身、つまり「何をどう話して受注に至ったか」が記録されないため、エースの勝ちパターンは本人の記憶の中にだけ蓄積され続けます。属人化の解消というと案件管理の話になりがちですが、本丸は商談の中身とその振り返りの仕組み化です。
ではAIコーチングとは具体的に何をするものか。中核は、オンライン商談の録画や録音をAIが解析し、フィードバックを返す仕組みです。話す割合と聞く割合のバランス、想定質問への切り返し、次のアクションの合意が取れたか、といった観点を商談ごとに振り返れます。
ポイントは、AIがマネージャーより優れた助言をするかどうかではありません。フィードバックの頻度と均質さが変わることです。月1回の同行でしか得られなかった振り返りの機会が、すべての商談で得られる。誰の下に付いたかに左右されず、同じ観点で評価される。さらに、解析された商談データからエースのトークの共通項を抽出し、「うちの会社の勝ちパターン」として言語化する材料にもなります。エースの頭の中にあったものが、初めてチームで参照できる形になるわけです。
なお、調査で90%がAI導入済みまたは導入予定と答えたことが示すように、AIを使うこと自体はもう差別化要因ではありません。差が付くのは、AIを育成とナレッジ共有のどの工程に組み込むかという設計です。
専用のイネーブルメントツールを入れなくても、考え方は今日から試せます。営業が数名、あるいはマーケ担当が商談まで兼務しているような体制なら、まず「録画と振り返りの習慣」だけを仕組みにします。
1. オンライン商談を録画する(週1件からで構いません。冒頭で相手の許可を取ります) 2. 生成AIに文字起こしを渡し、決まった観点でフィードバックさせる。観点は最初に固定します。例えば「自分が話した割合」「相手の課題を言い換えて確認できたか」「次回までの宿題を合意できたか」の3点です 3. 週30分、自分の商談を1件だけ振り返る時間を予定に入れる。気づきを1行でよいのでCRMの商談メモに残します 4. 月1回、チームで「良かった切り返し」を1人1つ持ち寄る。失敗例も歓迎する場にすると続きます
重要なのは、振り返りの結果を個人のメモ帳ではなくCRMなどチームで見える場所に蓄積することです。商談の記録と振り返りが同じ場所に貯まって初めて、後から入った人が「過去の似た案件で何が効いたか」を自分で調べられるようになります。このあたりの記録設計は営業ノウハウを仕組みに変える営業最適化の支援で扱っている領域です。
DX推進や営業企画の立場で予算を確保するなら、論点は「年1回の集合研修から、日常のコーチングへの組み替え」です。座学の集合研修は実施した事実は残りますが、商談の現場で何が変わったかを測れません。一方、録画とAIフィードバックを軸にしたコーチングは、振り返りの実施率や商談ごとの行動変化が記録に残るため、投資の説明がしやすくなります。
稟議には、本稿の数字をそのまま使えます。「ベンダー調査ではあるが、AIコーチング活用チームは勝率向上の報告が36%高い」「ベテランの異動・定年で失われるノウハウの保全策でもある」という2点立てです。効果は因果が証明されたものではないと正直に書いたうえで、まず1チーム・3か月の試行から入る提案にすれば、過大な約束をせずに始められます。
なお、ここで扱ったのは営業に特化したコーチングの話で、全社向けのAI研修の設計はまた別の論点です。BCGの調査では5時間以上の対面・コーチング付き研修が定着の分かれ目とされており、こちらは別稿「AI研修5時間の壁」で詳しく扱っています。どの業務にAIを組み込むかの見立てから必要な場合は、業務へのAI実装支援もあわせてご覧ください。
エースが抜けても崩れない営業組織は、ノウハウを「人」ではなく「記録と振り返りの仕組み」に置いています。自社の商談記録がその土台になっているか、まず1件の録画から確かめてみてください。営業最適化・パイプライン管理の進め方を具体的に相談したい場合は、無料相談からお声がけください。